卓話「北原白秋について
竹村藝術スクール館長 竹村忠孝様
北原白秋は「小田原は私のふるさとである」と語っています。
白秋が小田原に来たのは1918年(大正7年)3月のことでした。折しも童謡運動が盛んになり、同年7月には鈴木三重吉によって童謡集『赤い鳥』が発刊されました。お渡しした白秋の歌詞集にある「リス リス小リス」がその雑誌の巻頭に掲載されています。1926年(大正15年)に小田原を離れるまでの8年間に、白秋が作った童謡のほとんどを小田原で書いています。
白秋は福岡県柳川市で生まれましたが、酒造業を営む父から文学への志を反対されて東京へ向かいました。ところが、火事で家を失い莫大な借金を背負った親兄弟が白秋を頼って上京しますが、白秋は小田原へ逃げてくることになります。白秋は43回も引っ越しをくり返して家を持つことはしませんでしたが、唯一、小田原時代だけは自分の家に住んでいました。ある事情で自殺を考えた白秋は神奈川県三浦市に移りますが、そこで作られたのが、名曲“城ヶ島の雨”です。
童謡は国家の反対を受けつつも、一般庶民や文学者などからは高い支持を得、白秋の創作活動も活発になっていきました。市内にあった養生館からお花畑(南町3-5)、そして伝肇寺へと移った白秋は、「雨」や「あわて床屋」「からたちの花」「砂山」「ペチカ」「雨ふり」などを次々と書き上げました。白秋全集40巻のうちの約3分の1は小田原時代のことが書かれています。やがて、伝肇寺で“みみずくの家”を作ったのです。しばらくして、この地に“洋風のみみずくの家”を建てようとしたところ、思いがけない騒動が起こり2度目の離婚。この後遺症もあって、少しの間ですが作品が生まれませんでした。しかし、知人からすすめられた女性と再婚し子供が授かり、その喜びから作られたのが「ゆりかごの歌」です。先に述べた作品や「まちぼうけ」「この道」「スカンポの咲く頃」などは、水之尾から荻窪へ続く道を歩きながら作られたものです。こうして、作品と白秋の名が知られるようになり、借金からも解放され安定した生活ができるようになりました。
私も国文学の面から白秋を研究してみようと考えていますが、北原白秋の名は“全国区”ですので、詩碑を市内に建てたりして活性化を図ってみてはいかがでしょうか。
会長あいさつ 譲原 彰会長
25周年記念式典も無事終了することができ、皆様には心より感謝申し上げます。小田原中ロータリークラブの力を改めて認識した次第です。
釼持会員の事務所の新ビルが完成したそうですので、御祝金を贈呈いたします。また、マルチ・ポール・ハリス・フェローのピンが内田治光会員に届いていますのでお渡しいたします。二宮神社の大祭に協力させて頂きました御礼として、お神酒を頂戴いたしました。
幹事報告 西山文男幹事
1.足柄RCより「国際交流青少年アドベンチャーの開催」への誘いが届いています。5月22日午前9時より21世紀の森で行われますので、参加希望者は事務局へ申し込んでください。
2.富士学園様より、5月8日午前9時30分から第一生命グラウンドで「県西地区みんなの集い」を開催する旨の案内状が来ています。参加希望者は事務局へ申し込んでください。
3.松宮ガバナー夫人のチャリティーコンサートのチケットが10枚ありますので、ぜひご購入ください。