会長あいさつ 譲原 彰会長
本日の理事会で創立25周年記念事業の要綱が決定いたしました。東大阪東RCとの友好クラブ締結も進める方向に決定、予算案も承認されましたのでそのプリントも作成いたします。先日、廣澤会員のお見舞に行って参りました。本人はとても元気でしたが、リハビリに時間がかかるとのことです。
幹事報告 西山文男幹事
〔理事会報告〕
下記事項について承認されました。
1.新潟・福井への災害義捐金協力の件(1人当たり1,000円)
2.9月の卓話
3.中RCの定款・細則制定の件および委員会設置の件
また「特別基金の使途」「新会員推薦書」について検討がなされました。
卓話「83年の思い出」 梅津忠雄会員
幼年期の記憶として鮮明に残っているのは、大正12年(1923)9月1日におきた関東大震災です。東の空が真っ赤に燃えていた光景は、今でも私の脳裏にはっきりと焼きついています。
少年期には、小学校時代の初恋の想い出があります。相手は歯科医士(歯医者)の娘さんで、端麗美貌の彼女に心を寄せていました。当時、父は山梨県庁に職員として勤務していましたので、私は洋服を着て学帽をかぶり、黒いランドセルを背負って通学していました。今思うと、着物で通う生徒に対し多少の優越感を持っていたと思います。中学校に入学すると、各学校には配属将校がいて一週間のうち2日は軍事教練があり、ゲートルを巻いて軍服を身に付け、銃を持って訓練させられた思い出が残っています。本科では剣道部に所属して卒業時には初段を取得した記憶があります。中学校を卒業後、中国の旅順にあった南満高専に入りましたが地元の学生と騒動をおこして退学させられ、やむを得ず南満州鉄道に入社させて頂きました。その頃は、20歳になると兵役の義務がありましたので入隊し、乙種合格で山梨県四十九連隊に配属されました。ある日、中隊長の命令を拒否して初めて殴られましたが、目から星が出るというのはこのことだと初めて知りました。非国民呼ばわりされたうえに無理やり甲種の試験を受けさせられ、幹部候補生に合格し、豊橋の予備士官学校に入りました。そこで連日のごとく朝から晩まで厳しく教育された次第です。
卒業後は満州へ戻ったものの、暗号将校になるよう内地へ戻され、相模大野の陸軍通信学校で教育を受けました。日本は絶対に負けないという信念を持って戦っていましたが、ロシアとの開戦を知ったのは昭和20年(1945)8月8日でした。それでも18日まで陣地で戦いましたが、終戦は満州とロシアの国境地点で迎えました。その日の出来事は、60年近く経った今でも忘れることはできません。また、軍律厳しき時代に教育を受けた私は、戦後の180度の転換で教育の恐ろしさ、大切さを痛感いたしました。
話は前後しますが、私はモスクワ近郊の収容所で3年間の抑留生活を送りましたが、そこで私の満州時代を知る女性の陸軍大尉との出会いがあり、戦犯である私が他の人より早く日本の土を踏むことができました。まさに摩訶不思議な出会いでした。
さて、ロータリークラブとの関わりは、私が昭和45年(1970)に小田原クラブに入会させて頂いた時から始まりました。開会の1時間前に会場に来ることを命じられ、ロータリーについての基本的なことを教えて頂きました。“三つ子の魂 百までも”の諺のように、そういった教育があってこそロータリアンとしての自覚が養われるのではないでしょうか。山梨から小田原に出て来た私が現在まで何とかこられたのは、ロータリークラブで教育を施して頂いた方々の有形無形のご支援のお陰と感謝し、ご恩は忘れることはできません。
「ロータリーの友」にロータリークラブ会員の義務が掲載されていますが、こういう記事を読んで理解することが大切であると思います。バッヂの重みと各自の責務を充分に理解し、委員会活動においては委員長が先達になり、独断で物事を進めず委員の方々と綿密に話し合いを持ちながら実行に移していくことが重要ではないでしょうか。
「人との出会い」は日頃の生活の中から生まれてくるもので、それが職業奉仕につながることもあります。これからも会員として出会いの大切さや楽しさを利用しながら、日々の活動に励んで頂きたいと思います。
こんばんわ、中国での生体験貴重ですね。ご苦労様でした。
Posted by: カワグチ コウイチ at 2004年08月11日 22:20